りけイノシシのweb武将名鑑

武将や、武士の時代の戦いについて紹介するブログです。日本史の面白さが伝わるような活動を心がけます。

謎に包まれた明智光秀の出自と前半生とは?

明智光秀の出自は謎に包まれていて、正確なことはわかっていません。また、光秀が歴史資料に確実に登場したと断定できるのは、足利義昭の家臣だったときです。それ以前の光秀の足跡についても、よくわかっていません。

ここでは、光秀の出自と、その前半生について紹介しています。

【麒麟がくるの主人公】明智光秀の生涯を図で解説:web武将名鑑

明智光秀の肖像画

出自

明智光秀の出自については、わかっていないことだらけです。ここで紹介しているのはあくまで説であり、確実に正しいとは言い切れません。

光秀は、美濃(岐阜県)周辺で生まれたそうでが、生年はわかりません。ただし、本能寺の変の時点で、かなり高齢だったと言われています。さらに、父の名前も不詳で、光綱、光国、光隆など諸説あります。明智氏土岐氏支流であったと言われていますが、どこまで正しいかわかりません。

また、若い頃どこで、何をしていたかも定かではないです。以下では、光秀が足利義昭に仕え始める前までの、動向について2つの説を紹介しています。

朝倉義景の家臣説

足利義昭に仕える直前は10年程度、朝倉義景に仕えていたという説があります。

それ以前は、斎藤家に仕えていましたが、斎藤家の内紛により明智城を一族とともに追い出されたと言われています。そして、朝倉義景に仕えるものの対立し、従兄妹の濃姫を頼って織田信長に仕えたそうです。

しかし、この説では朝倉義景に仕えた後、直接織田信長に仕えたとありますが、この部分は完全に誤りです。光秀は朝倉家に仕えた後に、一度幕臣として足利義昭に仕えています。また、この説を採用している多くの資料が、軍記物語であったり、軍記物語を元ネタとしていたりします。そのため、現在ではあまり信用されていません。

細川藤孝の家臣説

明智光秀は、細川藤孝の中間(足軽と小物の間)であったという説があります。そして、その後、足利義昭足軽として仕え始めます。

1565年に、室町幕府13代将軍の足利義輝が、家臣の松永久秀三好三人衆に殺されます。細川藤孝は、足利義輝の弟、足利義昭を仏門から還俗させ、近江(滋賀県)に連れて逃げます。

この事件によって、足利義輝に仕えていた幕臣も、京都に残る者と、足利義昭に従い近江までついて行く者とに分かれます。その結果、家臣に不足が出てしまった足利義昭は、新たな家臣の補充を迫られました。ここで、光秀も足利義昭の家臣として採用されたと考えられています。

【麒麟がくるの主人公】明智光秀の生涯を図で解説:web武将名鑑