りけイノシシのweb武将名鑑

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織田信秀【大河ドラマ、「麒麟がくる」にも登場】:図で解説

織田信秀は注目されることの少ない武将ですが、来年の大河ドラマ麒麟がくる」では、織田信秀の活躍にも光を当てるそうです。

織田信秀織田信長の父で、織田信長尾張(愛知県西部)を統一する足掛かりを築いた人物です。ここでは、織田信秀の生涯について紹介しています。

織田信秀という文字

発展著しい弾忠正家継承

織田信秀の出自と家柄を示す図

織田信秀織田信定(信貞とも)の長男として誕生しました。信秀は、織田氏の弾正忠(だんじょうのちゅう)家の出身です。

弾正忠家は、尾張の守護である斯波氏の家臣で、下四郡の守護代、織田大和守家に仕える清州三奉行を務める家柄。要するに、尾張で一番偉い人の家臣の家臣です。

尾張、勝端城、津島の位置を示す図

信秀の父信定は、尾張の津島を支配するために、津島の近くに居城の勝幡城を築城。

津島は伊勢湾に近い港町です。また、牛頭天王神社があり、全国から大勢の参詣者を集める町でもありました。津島は代々、港町の商権や神社の利権を持つ、有力者によって運営されていたのです。

津島の全てを支配できたとは言えませんが、織田信定は津島を自身の支配下に組み込みことに成功。信秀が弾正忠家の家督を継ぐと、津島の経済力がものを言うようになります。

京の公家を招待

清州城の対立と京の公家が通ったルートを示す図

信秀を家督を継いだ後、主君で清州城の城主、大和守家の織田達勝と敵対したようです。織田達勝の家臣で、清州三奉行を務める織田藤左衛門尉も、織田達勝に味方し、信秀と対立。

信秀は、織田達勝、織田藤左衛門尉との仲を戻したいと考えます。そこで、1533年、京の公家で蹴鞠の師範である飛鳥井雅綱と、その友人の山科言継を尾張に招き、蹴鞠の指南を受けることにしました。この二人の訪問を契機として、織田達勝、織田左衛門尉との関係修復を図ったのです。

この目論見は成功し、織田達勝、織田藤左衛門尉との交流を再開。京の公家訪問には、信秀の経済力をにアピールする狙いもありました。結局、飛鳥井雅綱と山科言継は1月半も尾張に滞在した後、京に戻ります。

これ以降しばらく、清州の織田家は、信秀の拡大政策を支援します。

那古屋城奪取

那古屋城への進出を示す図

守護代の織田達勝との関係を改善した信秀は、支配地の拡大を目論みました。信秀の居城、勝幡城は海東郡の西端に位置し、西には海西郡があります。海西郡には一向一揆の勢力が根付いており、迂闊に手が出せない状況でした。そこで、信秀は東方への進出策を決意。

那古屋城を手に入れ、居城にすることを目標にしました。当時の那古屋城の城主は、今川氏豊今川義元の弟です。

信秀が、那古屋城を奪取した方法はわかっていません。しかし逸話ならばあります。

信秀は手に入れた那古屋城を新たな居城に定め、改修。守護代の織田達勝も援助したと考えられています。那古屋城奪取は織田達勝にも支持されていたのです。

経済都市熱田の支配

熱田神宮の位置を示す図

那古屋城を手に入れた信秀は、熱田を含む尾張愛知郡まで支配下に置いたと考えられています。特に熱田は、津島と同様に港町で、熱田大神宮の門前町でもあり、尾張有数の経済都市でした。

ただし、熱田は多くの有力者が協同で治めていた津島と異なり、豪族の加藤家が商売の特権を掌握。信秀は那古屋城を奪取した後、加藤家の権利を保障。その後、愛知郡を中心に東尾張支配下に組み込んだと思われます。

西三河への進出(VS松平氏)

安城城攻めを示す図

更なる東方進出を目指す信秀は、三河(愛知県東部)に兵を向けます。三河を治めていたのは松平氏。しかし、当時は内部争いにより三河は混乱状態にありました。

時期は定かではありませんが、信秀は三河西部に侵攻し、安城城を攻略。城主の松平康家は討死したと言われています。

安城城攻略に前後して、信秀に降る松平一族も現れます。一説によると信秀が岡崎城も攻略したとも言われていますが、定かではありません。

西三河侵略により、信秀の勢力は矢作川西部にまで及んだと考えられています。

伊勢神宮遷宮と皇居修理への献金

伊勢神宮と朝廷への献金を示す図

三河奪取後、信秀の経済力をアピールする場がやってきます。伊勢神宮遷宮と皇居修理です。

伊勢神宮式年遷宮といって、20年に一度社殿を建て替えるしきたりがあります。しかし、戦国時代になると、支援してくれる有力者が見つからず、長期間遷宮が実施されていませんでした。伊勢神宮遷宮のために、信秀は700貫もの献金を行いました。

この献金により、信秀の名は京にまで知れ渡ります。織田信秀は家各は低いが、経済力があるという目で見られます。その結果、今度は朝廷が皇居修理の支援を信秀に依頼。

1000貫、現在の価値にすると約1億円もの献金を信秀は行いました。信秀の献金は当時最大。ちなみに、今川義元が皇居改修のために出した献金は500貫です。

※第1次小豆坂の戦い

1542年に今川氏との間で起きた戦いですが、現在では、この戦いの存在が疑われています。存在がはっきりしないので、別で紹介しています。

その後、信秀は古渡城に居城を移しました。

美濃稲葉山城攻め(VS斎藤氏)

稲葉山城攻めの概要を示す図

那古野城を奪取した信秀は、三河だけでなく、美濃(岐阜県)まで視野に入れていました。当時の美濃の実質的支配者は斎藤道三斎藤道三は、守護の土岐頼武を追い出していました。

信秀は美濃に攻め入り大垣城を落とします。その後、斎藤道三の居城、稲葉山城を攻略するために、他の勢力と協力。美濃を追い出された土岐頼武の子、土岐頼純、その保護を行なった越前(福井県)の朝倉氏です。

稲葉山城攻めの主力は織田軍でした。近隣の村や城下町に放火するも、斎藤道三は城に籠もったまま。夕方、信秀が一度軍を引き上げるために背を向けると、斎藤軍が城から出撃。追撃戦になり、織田軍は討死多数、慌てて南方へ逃げるも、前方の木曽川により溺死するものが続出。

こうして、稲葉山城攻めは失敗に終わったのです。

第2次小豆坂の戦い(VS今川氏)

小豆坂の戦いを説明するための図

美濃侵攻が頓挫した信秀は、さらなる戦いを強いられます。今川氏との争いです。今川氏も混乱した三河に目をつけ、東三河に侵攻していました。1548年、東から侵攻してきた今川義元と、西から侵攻してきた信秀が三河で衝突。

今川軍を率いるのは軍師、太原雪斎。西三河に進軍し、上和田砦に駐屯していた織田信広を攻撃しました。信秀は安城城から後詰として出陣。両軍は小豆坂にて激突し、織田軍が敗北。信秀は、安城城に信秀の庶長子、織田信広を配置して退却しました。

守護代の家臣達との争い

大垣城の救援から古渡城襲撃までの流れを示す図

小豆坂の戦いから8か月後、美濃の斎藤道三大垣城の奪還を図り攻めてきます。大垣城の守備を任されていたのは、織田播磨守。信秀は大垣城の救援に向かいますが、ここで事件が発生。

守護代の織田達勝の家臣が、信秀の居城、古渡城を襲撃。この事件は、織田達勝が信秀と敵対したために生じた事件ではありません。織田達勝が家臣を統制できなくなり、家臣団が勝手に起こした事件です。

信秀の三河や美濃への侵攻は、織田達勝の同意の上で行われ、清州の家臣団も動員されていました。しかし、稲葉山城攻めや、小豆坂の戦いで敗れたことにより、清州の家臣団の溜まっていた不満がはじけてしまいます。こうして、古渡城襲撃事件が起きたのです。

清州、美濃との和睦

美濃斎藤氏、清州の家臣団との和睦を示す図

信秀は清州の勢力と講和を試みますが、織田達勝の家臣団はこれを拒否。翌年の1549年になり、ようやく和睦に至ります。

さらに同年、三河方面、美濃方面の両方で拡大政策が失敗したことを受け、美濃の斎藤道三とも和睦を締結。斎藤道三の娘帰蝶と、信秀の息子信長の結婚を和平の条件としました。

和議により、美濃方面の安全が確保されると、信秀は今川氏との対決に専念。居城を三河に近い末森城に移転しました。

病状の悪化と今川氏の勢力拡大

今川勢による安城城攻略と人質交換を示す図

斎藤道三との和睦を進めていた頃から、信秀は体調を崩していたようです。1549年9月に今川軍が、西三河方面に侵攻。10月には、今川軍が安城城を包囲。11月になると、織田信広は今川軍に降伏し捕虜になります。信秀は病状が悪化していたため、後詰に行けなかったと言われています。

外交交渉の結果、今川氏の捕虜になった庶長子の信広と、織田方に人質として取られていた竹千代(後の徳川家康)との人質交換を行いました。これにより、織田信広を取り返すことに成功。しかし、安城城を失い織田家の西三河への支配力は低下。

1550年になると、今川軍は尾張知多郡まで侵攻。織田軍はかろうじてこれを防ぎます。翌年には足利義輝の命の下、前関白だった近衛稙家の仲介によって和睦の話が浮上。

しかし、今川氏との和議はまとまることはありませんでした。1552年に信秀が死去したためです。今川氏との抗争は、息子の信長にまで持ち越されることになります。