りけイノシシのweb武将名鑑

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豊臣秀吉の死から徳川家康の天下取りまで【概要】

ここでは、豊臣秀吉の死から、徳川家康の天下取りまでの経緯を、7つの大きなポイントを基に、誰にでもわかるように説明しています。

秀吉の死と家康の専横

1598年:豊臣秀吉の死と家康の専横

秀吉が死に家康が専横を極めたところから、始まります。家康が以下のようなことを、無断で行いました。

  • 私的婚姻
  • 諸大名の人質の帰国を無断許可

このような、家康の専横に対して、前田利家を筆頭に家康に抗議する武将が現れました。この抗議は激しく、武力衝突寸前まで発展したそうです。最終的には、誓書を交換することで、事態は収束しました。

前田利家は、徳川家康と並んで、豊臣秀吉に後事を託された人物で、徳川家康の抑えとなることを期待されていたのです。

前田利家の死と石田三成の謹慎

1599年:前田利家が病死

1599年:石田三成が襲撃され責任を取り居城で謹慎

豊臣政権の重鎮であった前田利家の死により、事態は悪化します。

大阪城下の、自分の屋敷にいた石田三成が、福島正則加藤清正池田輝政細川忠興浅野幸長加藤嘉明黒田長政に、襲撃されました。石田三成は無事に逃げることができましたが、徳川家康毛利輝元上杉景勝北政所(秀吉妻)の仲裁により、居城の佐和山城(滋賀県)で謹慎を命じられます。これによって、家康の専横に抗議する人物が一人表舞台を去りました。

石田三成襲撃事件は、前述した7人の武将が、朝鮮出兵での不満によるものとされていますが、これを示す信頼できる証拠はありません。また、家康が裏で糸を引いて、7人の武将に襲撃させたとも言われています。

前田征伐騒動

1599年/10月:前田利長に謀反の嫌疑と討伐の号令

この後、徳川家康は、前田家を臣従させようとします。徳川家康は自身の暗殺計画を、前田利長(前田利家の息子)が企んだとして、加賀(石川県)に兵を差し向けるよう、諸大名に号令を出しました。前田利長は、慌てて、恭順の意を示すために、江戸に人質として母である芳松院(まつ)を派遣します。

さらに、この混乱に乗じて、徳川家康は無断で大阪城に入城しました。これは、豊臣秀吉の遺言、「徳川家康伏見城で政務にあたる。」に反するものです。

さらに、徳川家康は無断で大名の領地の加増(領地を増やす)や、減封(領地を減らす)、転封(領地の移転)を行いました。このように、徳川家康の振る舞いが目に余るようになります。

会津征伐

1600年/6月:会津征伐の号令

1600年/7月:家康は江戸城に戻り会津に向け出陣

前田家を恭順させた後に、徳川家康は、上杉景勝が豊臣政権に対し反逆の嫌疑を懸けます。そして、上杉景勝へ上洛を求めました。しかし、上杉景勝が、上洛の時期延期を求めたため、これを口実に会津征伐を実行します。

徳川家康は、6月に上杉征伐の触れを諸大名に出しました。その後、7月には大阪城から居城の江戸城に戻り、会津に向け自らも軍勢を率いて出陣したのです。

西軍挙兵と東軍西進

家康が、諸大名を率いて会津征伐に出陣したのと前後して、関ヶ原の戦いにおける西軍が挙兵します。現在では、「内府ちがひの条々」を出した時点を、西軍の挙兵しています。

内府ちがいひの条々の意義とは?

※西軍の挙兵は、石田三成が主体的に動いたと思われていますが、西軍の挙兵と石田三成の関係を示す、明確な証拠は見つかっていません。

一方で、「内府ちがひの条々」をうけて、徳川家康会津征伐を急遽取り止めます。そして、軍を西に向け、関ヶ原の戦いにおける東軍が、西進を開始します。

関ヶ原の戦い

1600年/9月/15日:関ヶ原の戦い

東軍、西軍ともに、各地で戦闘を行いつつ、岐阜県にある関ヶ原に着陣します。そして、9月15日の関ヶ原の戦いにより、東軍が西軍に勝ち、西軍を指揮した石田三成は捕らえられ、後に斬首されました。

関ヶ原の戦いの戦闘の経緯

江戸幕府の成立と大阪の陣

1603年:徳川家康征夷大将軍に任命

1605年:徳川秀忠に将軍職を譲る

1614年:大坂冬の陣

1615年:大坂夏の陣

徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利しましたが、この時点では依然として、豊臣秀頼の家臣としての立場でしかありません。そこで、徳川家康は1603年に征夷大将軍になりました。征夷大将軍に任命されることで、豊臣氏とは分離した体制を作り出したのです。

そして、征夷大将軍職を息子の徳川秀忠に譲ることで、将軍職を徳川家が世襲することを示し、大阪の陣で豊臣氏を滅亡させることで、天下統一を成し遂げました。