りけイノシシのweb武将名鑑

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萱津の戦い:戦いで読み解く戦国史

萱津の戦いは、織田信長と織田大和守家(守護代)の実力差が明確となった戦いです。ここでは、萱津の戦いとその影響について紹介しています。

萱津の戦いという文字と灰色の背景

萱津の戦いとは?

萱津の戦いの結果と起きた位置を示す図

萱津の戦いとは、清洲城を本拠地とする守護代織田信友の家臣団(清州家臣団)と織田信長との間に起きた戦い。

萱津の戦い前の情勢

尾張の支配体制と守護の暗殺を示す図

尾張の守護、斯波家は凋落が甚だしく、家臣で守護代を務める織田大和守家の居城、清洲城に同居していました。一方で、織田大和守家の当主織田信友も家臣団を統制できていませんでした。織田信友は清州家臣団の傀儡っだたのです。

このような状況下で、織田信友の家臣団が清洲城で、守護を殺害。子どもの岩龍丸は、織田信長に保護を求め、那古野城に逃亡。

織田信長は、織田弾正忠家の出身です。織田弾正忠家は、もともと織田大和守家の家臣。しかし、この頃までには実力は織田大和守家を凌駕していました。

織田信長清洲城の織田大和守家に敵対すると謀反となります。しかし、守護の斯波家が保護を求めてきたことで状況は一変。織田大和守家が、守護に謀反を起こしたことになったのです。

萱津の戦い

清州家臣団による松葉城と深田城を攻略を示す図

まず、清洲の家臣団が動きます。織田信長の拠点である勝幡城那古野城の分断を狙い、松葉城と深田城を攻略。松葉城の織田守信と、深田城の織田右衛門尉は捕虜となります。

松葉城と深田城は織田信長が拠点とした城、勝幡城那古屋城の間に位置していたため、両城の分断を図ったのでしょう。

萱津の戦いにおける清州家臣団と織田軍の進軍経路を示す図

織田信長は松葉城と深田城が占領された報告を受け、那古屋城を出陣。稲葉地にて、守山城主である叔父、織田信光と合流。そして、柴田勝家とも合流します。当時柴田勝家織田信長の弟、織田信勝の家老でした。

織田信長は軍勢を、松葉口、三本木口、清州口の三手に分けて庄内川を渡河。織田信長が率いる軍勢は、萱津に進軍し清州勢と戦闘。数時間戦いは続き、柴田勝家が敵将の一人、坂井甚助を討ち取りました。

一方、松葉城の清州家臣団は、織田軍に追われ真島で戦うも防戦に終始し退却。深田城の清州勢も、三木村で迎撃態勢を整え迎え撃つも、守りに不向きな地形であったため、織田軍に敗北。松葉城、深田城は織田信長に取り返されました。

織田信長は、勝利に乗じて清州城下にまで攻め入り田畑の農作物を刈り取って、清州城の兵糧を断ち帰城。

萱津の戦い後の情勢

萱津の戦いで敗北したことにより、清州の家臣団は追い詰められます。坂井甚助を失ったことが大きく、有力な家臣は坂井大膳のみになりました。織田大和守家の家臣団の勢いの低下は、織田大和守家の勢力の減衰を意味します。

最終的に、織田大和守家の家臣団は調略を仕掛けますが、失敗に終わり織田大和守家は滅亡することになります。