りけイノシシのweb武将名鑑

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南伊勢攻め:戦いで読み解く戦国史

南伊勢攻めは、織田信長が伊勢(三重県の一部)の南部に勢力を張っていた北畠氏を、攻めた戦いです。南伊勢攻めの推移の中には、未解明の部分も多く詳細の解明が求められています。

灰色の背景と南伊勢攻めという文字

南伊勢攻めとは?

南伊勢攻めの勝敗と争いが起きた場所を示す図

1569年、伊勢(三重県の一部)の南部を支配していた北畠具教・具房の父子を、織田信長が攻めた一連の戦いを、ここでは南伊勢攻めと呼ぶことにします。最終的に、織田信長と北畠氏との講和に終わりますが、講和条件は織田信長に非常に有利でした。

しかし、実際の戦いでは北畠具教・具房が善戦し、ほぼ織田方の敗北だったとも言われていますが、詳細は未解明です。

南伊勢攻め前後のまとめ

以前:木造具政が織田信長に内通

以後:織田信長の次男が北畠氏の養嗣子

南伊勢攻め以前の状況

木造城攻めの経緯と起きた場所を示す図

織田信長は伊勢北部を、足利義昭の上洛(京に上ること)を支援する以前に平定していました。当時の伊勢北部は中小領主が乱立する状態で、織田信長はこれらを各個撃破。一方で、伊勢南部を中心に勢力を持つ北畠氏は、当時の織田信長にとって容易に勝てる相手ではありませんでした。

そこで、織田信長は南伊勢には攻め込まず、足利義昭のために上洛戦を実行。畿内(京周辺)の情勢が落ち着き、足利義昭のために二条城を建設し終えた後の1569年5月、織田信長の元に朗報がもたらされます。

北畠具教の実弟で木造城主の木造具政が、織田方に寝返りました。織田信長は家臣の滝川一益に命じて、木造具政を調略させていたのです。一方で、北畠氏もだまっていません。当主の北畠具房が自ら軍勢を率いて、木造城を包囲。木造具政は、滝川一益と北伊勢の神戸氏、長野氏の援軍とともに木造城に籠城したのでした。

南伊勢攻め

1569年8月20日~23日

織田信長は木造具政の寝返りを無駄にしないために、8月20日岐阜城を出陣。総力に近い8万~10万の大軍勢を率いての出陣だったと言われています。そして、その日のうちに桑名に着陣し翌日は鷹狩りを行いました。そして、22、23日には白子観音、小作まで進軍。

阿坂城攻め

8月26日

阿坂城攻めの勝敗と起きた場所を示す図

順調に軍を進める織田信長は、阿坂城を包囲。阿坂城を守るのは、北畠氏の重臣、大宮含忍斎だったと伝わっています。先陣の木下秀吉(後の豊臣秀吉)が阿坂城の堀際まで攻めかかりましたが、城方の反撃により負傷して後退。

しかし、織田方が大軍で攻め寄せると、防戦が困難と考えた、城方は降伏し阿坂城を退去。織田信長は阿坂城の守備を滝川一益に任せました。

大河内城攻め

北畠氏の居城は霧山城でしたが、北畠具教・具房は大河内城に籠城。

8月26日~28日

大河内城攻めで戦った人物と起きた場所を示す図

阿坂城を落とした織田信長は、その日のうちに大河内城に到着。8月28日には、四方に家臣を配置して鹿垣を二重三重に作り包囲。

9月8日夜

大河内城を西から織田軍が攻めているとこを示した図

織田信長は、稲葉良通池田恒興丹羽長秀に命じて、西から三手に分かれて夜討ちを掛けさせます。しかし、雨が降ったため鉄砲を使うことはできず、城方の反撃により死傷者が出て失敗。

この日の夜討ち以外にも、織田方は城攻めを敢行し失敗をしたという記録や城を囲んでいる織田軍が北畠方に襲撃されたという記録も伝わっています。しかし、史料の信憑性を加味する必要があり、詳細は未解明です

9月9日

霧山城攻めと大河内城攻めの場所を示す図

夜討ちに失敗した織田信長は、滝川一益に命じて、北畠具教・具房の居城、霧山城とその周辺を焼き払わせました。そして、大河内城を兵糧攻めにします。

この兵糧攻めの結果については、城方には餓死者が続出したという記録や、城方は兵糧攻めを予期しており城内に大量の兵糧を備蓄しており効果はなかったという正反対の記録が残っています。信憑性の高い史料では「餓死者が続出した」と綴っていますが、織田方による記録であるため100%信用できるとは限りません。

10月3日

兵糧攻め開始から約1ヶ月、織田信長と北畠具教・具房は和睦。史料によって、北畠氏側から和睦したというものもあれば、織田信長から和睦を提案したというものもあります。この点に関しても未解明です。信憑性が高いとされる織田方の史料では、北畠氏側が、和睦を申し込んだことになっています。

しかし、現在では織田信長が15代将軍の足利義昭を動かし和睦に漕ぎ着けたという説が有力です。(有力であって確定ではない。)

わかっていることは、講和の条件が織田信長に有利だったことです。以下が条件です。

  1. 北畠具教・具房は大河内城を退去し他の城に移る
  2. 織田信長の次男、茶筅丸(後の織田信雄)を北畠氏の養子とする
  3. 周囲の北畠氏の城を破却する

織田方に有利な条件ですが、これは和睦の仲立ちをした足利義昭が、織田信長の味方であったためだと考えられています。

南伊勢後の情勢

南伊勢攻め後の勢力変化を示す図

和睦の条件通り、北畠具教・具房は大河内城を退去し、三瀬御所に移りました。一方で、大河内城には織田信長の次男である茶筅丸が入城。

北畠氏との和睦が成立した後、織田信長は京に行きます。足利義昭と面会し、朝廷にも顔を出した後、当初の予定より早く岐阜城に帰還。足利義昭と会った際に、不快を感じたためと言われています。織田信長足利義昭と話した内容については記されていませんが、南伊勢攻めのことについてだと、推測されています。

一方で、北畠具教は織田信長の次男、北畠具豊(後の織田信雄)にはしばらく家督を譲渡しませんでした。しかし、最終的には家督を譲渡。そして、家督譲渡の翌年、織田信長家督を譲られた北畠信意(後の織田信雄)によって、三瀬御所を襲撃され殺されてしまいます。