りけイノシシのweb武将名鑑

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美濃攻め:戦いで読み解く戦国史

美濃(岐阜県南部)は尾張をまとめた織田信長の次なる目標でした。織田信長は、美濃の斎藤氏との戦いに8年を要すらこととなります。

美濃攻めと言う文字と灰色の背景

美濃攻めとは?

織田信長と斎藤氏の争いの結果と両者の領地を示す図

美濃攻めは、織田信長が斎藤義竜・龍興の2代に渡る美濃の支配者と争い、美濃平定するまでの一連の戦いのことを指します。織田信長斎藤義龍が美濃を治めていた頃は、美濃を手に入れることができませんでした。しかし、息子の斎藤龍興が跡を継ぐと、苦戦を重ねながらも美濃を掌中に収めます。

美濃攻め前後のまとめ

以前:斎藤氏が美濃を支配

以後:織田信長が美濃を支配

美濃攻め以前の情勢

長良川の戦いの結果と起きた場所を示す図

織田信長尾張の織田一族と争っていた頃、美濃を支配していたのは斎藤道三でした。織田信長斎藤道三は同盟関係にあり、織田信長の妻は斎藤道三の娘、帰蝶織田信長斎藤道三の関係は良好でした。

ところが両者の関係も長続きはしませんでした。斎藤義龍が父道三に対して謀反。斎藤道三は圧倒的な兵力差もあり、長良川の戦いで敗死。織田信長斎藤道三に援軍を派遣するも、間に合いませんでした。

長良川の戦いに勝利した斎藤義龍が、美濃の支配者となります。ここから、織田信長の美濃攻めが始動。

斎藤義龍との争い

斎藤義龍と織田信長の所領と両者の争いの結果を示す図

斎藤義龍が美濃の支配者となった頃、織田信長尾張国内で一族との争い事で手一杯の状態でした。織田信長は何度か美濃に出兵するも、戦果はなく追い返されていたのです。

逆に、斎藤義龍織田信長に敵対する織田一族と手を組み織田信長を押さえこみにかかります。斎藤義龍の外交戦略の高さが伺えます。

その後、織田信長桶狭間の戦いで今川氏を退けた翌年、斎藤義龍は流行り病により死去。33歳でした。結局、斎藤義龍が健在だった時は、織田信長は戦果を挙げられなかったのです。

森部の戦い

森部の戦いが起きた場所とその結果を示す図

斎藤義龍の跡を継いだのは、息子で弱冠15歳の斎藤龍興。好機と捉えた織田信長は、斎藤義龍の死から3日後、1500の兵を率いて西美濃に向け出陣。勝村に布陣しました。

斎藤方は、長井衛安と日比野清実が6000の兵を率いて進撃。織田勢が長良川を渡河し、両軍は森部で激突。

織田勢の津島衆の活躍により斎藤軍は170の死者を出し敗北。長井衛安と日比野清実の両大将もそれぞれ、津島衆の服部康信、恒川長政に討ち取られました。

軽海の戦い

軽海の戦いが起きた場所とその結果を示す図

織田信長は、西美濃に侵攻し各地を放火して墨俣城に入城。そして、前線基地として十九条砦に織田勘解由左衛門尉を配置しました。

一方、斎藤方は稲葉家が対応しました。牛村政倫と稲葉常道が、十九条砦の攻略に派遣されます。これを受け、織田信長も出陣。

結果として、織田勘解由左衛門尉は討ち死。一方で、斎藤方の稲葉常道も、織田軍の池田恒雄と佐々成政に討ち取られます。合戦は混乱の様相を見せてきたので、織田信長は撤退を命じました。

犬山城攻め

犬山城の位置と犬山城攻めの結果を示す図

西美濃での戦いの後、織田信長は居城を小牧山城に移転します。尾張犬山城主で従兄弟の、織田信清が斎藤氏と結び敵対行動に出たからです。

織田信長丹羽長秀に支城の小口城と黒田城を調略させ、犬山城を孤立させます。丹羽長秀犬山城を包囲し兵糧攻めに。織田信長東美濃へも同時に侵攻していたため、犬山城へ斎藤方の援軍も来ません。その結果、犬山城は落城。織田信清は武田信玄を頼り甲斐に逃亡。

東美濃・中美濃平定

東美濃は中小領主が治る土地でした。織田信長は、鵜殿城を木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に攻めさせ降伏させます。すると、周囲の諸城に動揺が走りました。

これを契機に、調略や城攻めを駆使して諸城を掌中に収めました。さらに、木曽川を上流の中美濃も平定。

稲葉山城攻め

稲葉山城の位置と稲葉山城攻めの結果を示す図

東美濃・中美濃を攻略して暫くした後、織田信長に朗報が届きます。西美濃三人衆(氏家直元、安藤守成、稲葉良通)が、織田信長に投降を申し出たのです。

好機と判断した織田信長は、三人衆からの人質も待たずに出兵。稲葉山城の周辺を焼き払います。そして、稲葉山城を囲み、兵糧攻めに。

西美濃三人衆の投降により、周囲に味方のいなくなった稲葉山城は2週間で陥落。斎藤龍興は、伊勢長島に遁走しました。稲葉山城が落ちたことで、遠藤慶隆のように美濃の諸勢力も織田信長に従いました。これを以って、織田信長は美濃攻めを完了。

美濃攻め以後の情勢

美濃攻め以降の織田信長の所領と居城を示す図

稲葉山城を落とした織田信長は、地名を「稲葉山」から「岐阜」に改めます。そして、居城を岐阜城へと移転。足利義昭を迎え上洛するための地ならしとして、北伊勢の平定に乗り出します。