りけイノシシのweb武将名鑑

武将や、武士の時代の戦いについて紹介するブログです。日本史の面白さが伝わるような活動を心がけます。

小谷城・一乗谷攻め:戦いで読み解く戦国史

朝倉義景浅井長政織田信長に攻め滅ばされたのが、それぞれ一乗谷小谷城の戦いです。ここでは、朝倉義景浅井長政が滅ぶまでの経緯について解説しています。

灰色の背景と小谷城・一乗谷攻めという文字

小谷城一乗谷攻めとは?

小谷城・一乗谷攻めの勝敗の結果と起きた場所を示す図

1573年8月、織田信長一乗谷朝倉義景を攻め滅ぼした後に、返す刀で小谷城浅井長政を滅ぼしました。金ヶ崎の退き口(1570年)から約3年に渡り、織田信長にとって朝倉義景浅井長政は目の上の瘤のような存在でした。

小谷城一乗谷攻め前後の情勢のまとめ

以前:織田信長に敵対する諸勢力が力を削がれ、朝倉義景浅井長政が孤立

以後:織田信長の版図が近江(滋賀県)・越前(福井県北部)に拡大

小谷城一乗谷攻め以前の情勢

織田信長に敵対する諸勢力の状況を示す図

織田信長と、朝倉義景浅井長政の争いは1570年に、織田信長朝倉義景討伐のために兵を挙げたことが原因です。ここで、織田信長の同盟者であった浅井長政が裏切り、織田信長朝倉義景浅井長政の対立が始まります。

その後も、織田信長朝倉義景浅井長政姉川の戦い、志賀の陣、二度の小谷城攻めと大小の戦いを展開しますが、どちらも決定打に欠けるものでした。これは、織田信長浅井長政朝倉義景以外にも敵対する勢力を抱えていたからです。

しかし、以下のように諸勢力の影響力が減衰。

このように、織田信長と領土が接する小谷城浅井長政は、一乗谷朝倉義景しか頼る相手がいなくなります。このような中で、浅井氏の城は次々と攻め落とされていきます。さらに、浅井氏の家臣には、以下のように織田方へ寝返る者も出現。織田信長は、小谷城に近い、山本山城の阿閉貞征が降伏してきたことを契機として、小谷城を攻めに移ります。

小谷城一乗谷攻め

1573年8月8日~10日

小谷城周辺での布陣を示す図

8月8日、小谷城に近い山本山城の阿閉貞征織田信長に降伏。この知らせを受けて、織田信長は3万の兵を率い岐阜城を出陣し、翌日には小谷城周辺を見渡せる、虎御前山に布陣。そして、翌々日に佐久間盛、柴田勝家を山田山に配置。

一方で、越前から援軍として駆けつけた朝倉義景は田上山に本陣を構えます。朝倉義景引きる兵は2万人で、先鋒の朝倉景健・景胤は田部山に布陣。また、琵琶湖西部から来た山崎吉家らは賤ヶ岳に布陣。その他の諸将は余呉から木之本一帯に陣を敷きました。そして、朝倉勢は大嶽城とその背後に焼尾砦を構築したのです。大嶽城は小谷城より高所にあり、朝倉軍にとって重要な拠点でした。

この動きに対し、織田信長重臣佐久間信盛柴田勝家山本山城に派遣し、小谷城と越前(福井県南部)の交通を遮断。さらに、朝倉勢への牽制として、高月に稲葉良通丹羽長秀、蒲生氏、永原氏、進藤氏、永田氏らを派遣。

8月12日夜

織田信長が大嶽城を攻める様子を示す図

大嶽城の守備の一翼を担っていた浅井氏の家臣、浅見対馬守が織田方に寝返りを伝えてきました。これを好機と捉えた織田信長は夜間の暴風雨の中、大嶽城を急襲。浅見対馬守に手引きさせました。大嶽城に向かわせた兵は、山本山城に配置されていた佐久間信盛柴田勝家滝川一益、木下秀吉(後の豊臣秀吉)だったと言われています。

また、大嶽城への襲撃に際し、織田信長も自ら軍を率いて焼尾砦を落とし大嶽城へ攻め上がったのでした。突然の織田軍の襲撃を受け、大嶽城を守っていた将兵は、織田信長によって解放され、それぞれ浅井軍、朝倉軍の元に戻って行きました。将兵を返すことで、朝倉義景に大嶽城の周辺を制圧したと伝えようとしたのです。

8月13日

織田信長が丁野城を攻める様子を示す図

大嶽城を落とした織田信長はそのまま、丁野城を攻め落としました。ここでも、織田信長は捕らえた敵の兵を解放。

朝倉義景が撤退を始める様子を示す図

連日による味方の城の落城により、戦意喪失した朝倉義景は夜に越前へ撤退を開始。しかし、朝倉義景の撤退は織田信長により事前に読まれていたのです。織田信長は配下の武将に、追撃の準備を命じていましたが配下の武将達は出遅れます。結局、朝倉勢2万が撤退を開始すると、織田信長は自ら先頭に立ち後を追います。なんとか追いついた織田軍の武将達を織田信長は叱責。

織田信長が朝倉義景を追撃する様子を示す図

それでも、織田軍は敦賀と近江(滋賀県)の境、刀根坂で朝倉軍に追いつきます。この戦いは織田軍による朝倉軍の追撃戦。戦争で犠牲者が最も発生しやすいのが、追撃戦の様相を呈した時です。この時も例に漏れることなく、織田軍の一方的勝利となり、朝倉軍には戦死者が続出。織田信長による美濃攻めにより、逃亡した美濃(岐阜県南部)の旧国主、斎藤龍興もここで討死しています。

8月14日~18日

織田信長と朝倉義景の動向を示す図

辛くも織田軍の追撃を逃れた朝倉義景は、15日に居館の一乗谷に帰還。しかし、多くの将兵を失い、越前(福井県北部)にも味方をする者もいない有様でした。そこで16日、朝倉義景は、朝倉景鏡の進言に従い大野郡山田庄に向け逃走。当時、大野郡を治めていたのは朝倉景鏡であり、大野郡には朝倉氏と同盟していた平安寺もあり再起を図ろうとします。

一方の織田軍は14日からの2日間、敦賀に逗留。刀根坂での追撃戦による疲れを癒しつつ、地元の有力者から人質を取っていました。その後、降伏してきた前波吉継を案内役として、織田軍は木の芽峠を越え一乗谷に攻め込みます。18日、織田信長は府中に移動し、一乗谷に放火。朝倉義景に忠義を尽くす者達の抵抗に遭いますが、一乗谷は灰燼と化したのです。

8月20日~24日

朝倉義景の最期を示す図

大野郡に移動した朝倉義景一行は、一時的に宿舎として六坊賢松寺を利用していました。しかし、20日朝倉景鏡が朝倉義景を裏切り、六坊賢松寺を包囲。朝倉義景は自刃を余儀なくされたのです。朝倉景鏡は朝倉義景の首を持ち、24日に織田信長に降伏。朝倉景鏡は降伏を認められたのでした。

8月25日~26日

その後、越前(福井県南部)を帰参した朝倉家旧臣に分け与え、越前全体は前波吉継に任せ支配体制を確立。また、朝倉義景の嫡男、愛王丸を探し出させ丹羽長秀に殺させたのです。

織田信長が小谷城周辺に布陣する様子を示す図

越前の仕置を終えた後、織田信長小谷城に向けてもと来た道を戻ります。26日には織田信長は再度、虎御前山に本陣を構えました。

8月27日~29日

27日織田信長は木下秀吉に対し、小谷城の京極丸を攻めるよう命令。京極丸は浅井長政が籠る本丸と、浅井長政の父、久政が籠る小丸との間にあり連絡を担っていたのです。浅井井規が織田方に内通し手引きしたとも言われています。

京極丸を落とした勢いのまま織田勢は、浅井久政が立て籠もる小丸に攻撃。この攻撃を受けて、浅井久政は自害。翌日から織田軍は、最後に残った本丸攻勢を掛けます。浅井長政も28日または29日の内に自害し、小谷城は落城。

織田信長は宿敵、朝倉義景浅井長政の両者を一挙に攻め滅ぼしたのです。また、浅井長政の嫡男、万福丸も探し出され関ヶ原にて磔に処されました。

小谷城一乗谷攻め以後の情勢

浅井氏が支配していた近江(滋賀県)北部、越前(福井県北部)を手中に収めた織田信長は、論功賞を行います。近江北部の旧浅井領は、以前から浅井攻めを担当していた木下秀吉に与えられました。

旧浅井領の支配体制を示す図

浅井領(近江三郡)

朝倉義景の死後に織田信長により決められた越前(福井県南部)の支配体制は以下のようになっています。

越前の支配体制を示す図

朝倉領(越前)