りけイノシシのweb武将名鑑

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桶狭間の戦い:戦いで読み解く戦国史

桶狭間の戦いは学校でも習う有名な戦いで、織田信長が兵力差のある今川義元に、奇襲を仕掛け勝利したと教わったはずです。しかし、現在では奇襲は嘘だという説が濃厚です。

桶狭間の戦いという文字

桶狭間の戦いとは?

桶狭間の戦いの勝敗と起きた位置を示す図

桶狭間の戦いは、織田信長が約10倍の兵を率いた今川義元を討ち取り、勝利を収めた戦いです。

桶狭間の戦い前後のまとめ

以前:尾張(愛知県西部)東部を巡って織田氏と今川氏は対立

以後:今川義元が討死し織田氏は東の脅威排除

最近まで、織田信長今川義元の本陣を背後から奇襲したと言われてきました。しかし、現在では、今川軍に正面から戦いを挑んだ説が有力です。

桶狭間の戦い以前の情勢

織田氏と今川氏の城砦の位置を示す図

織田信長の父である織田信秀の死後、尾張東部の鳴海城、大高城、沓掛城は調略を受け今川氏の支配下にありました。織田信長は鳴海城と大高城の奪還を試みます。鳴海城の周辺に丹下砦、善照寺砦、中島砦を、大高城の周囲に鷲津砦と丸根砦を構築し兵糧攻めにしました。

桶狭間の戦い

今川軍が鷲津砦と丸根砦を攻める図

両城が包囲されたことを受けて、今川義元は松平元康(後の徳川家康)に命じ、大高城に食料を運ばせます。そして、自らも沓掛城に入城。今川方は、翌日に鷲津砦、丸根砦を攻める作戦を立案。

一方、織田信長両砦への攻撃予定を知るも、重臣を集め雑談したのみ。しかし、翌日両砦への攻撃の報告を受けると、敦盛を舞い、僅かな供回りを連れ出陣。熱田に向います。

織田信長が熱田に着くと、両砦から煙が上がっているのが見えたそうです。鷲津砦は朝比奈泰朝、丸根砦は松平元康に攻められ陥落していました。

織田信長が率いる軍勢と今川軍の移動を示す図

織田信長はさらに軍を進め、丹下砦、善照寺砦へと移動。ここで、後続の将兵が追いつき2000ほどの軍勢となります。織田信長は中島砦に兵を進めようとしますが、配下の将兵は反対。なぜなら、中島砦は善照寺砦よりも低い位置にあり、今川軍に動きが丸見えだったからです。

織田信長は家臣の意見を無視して中島砦へ移動。家臣に対して、今川軍は両砦への攻撃で疲弊しているから、今が好機だと言ったとも。結局、織田信長は中島砦をも後にし、今川軍を目指し移動。

この移動の最中、天気が織田信長に味方します。大雨が降ったのです。突然の大雨により、織田信長の軍勢は今川軍に発見されることなく接近できました。

雨が止むと、織田信長は今川軍への突撃を命じます。織田軍は不意を突かれた今川勢の前軍を敗走させ、そのまま今川義元の本陣に襲いかかりました。

今川義元の本陣は混乱。服部小平太一忠が今川義元に槍をつけます。しかし、今川義元により膝を切られ負傷。そこに織田軍の毛利新介良勝が切りかかり、今川義元を討ち取りました。

総大将の今川義元を討ち取られた今川軍は壊滅。桶狭間の戦いは、織田信長の勝利に終わったのです。

桶狭間の戦い以後の情勢

織田氏、松平氏、今川氏の領土を示す図

今川義元が打ち取られたことで、今川氏真が跡を継ぐも勢いは著しく減衰。松平元康は今川氏から独立し、織田信長と同盟し先祖伝来の地三河(愛知県東部)を今川氏から取り戻します。この後も今川氏は、隣国の松平氏と武田氏から領土を奪われていきます。