りけイノシシのweb武将名鑑

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忍城攻め:戦いで読み解く戦国史

忍城攻めは、石田三成が初めて一軍を率いる主将となり戦いに臨んだ戦いです。また、忍城攻めは石田三成の戦下手を象徴するエピソードとして伝わっていますが、実際は水攻めの指示を出したのは石田三成でないようです。

忍城攻めと灰色の背景

忍城攻めとは?

忍城の意図と忍城攻めの結果を示す図

忍城攻めは、豊富秀吉が行なった小田原征伐の一環で、石田三成が初めて指揮官を務めた戦いです。忍城は武蔵(埼玉県、東京都の一部、横浜県の一部)にありました。

最終的に忍城方は降伏するので、石田三成率いる豊臣軍の勝利ということになります。

忍城攻め前後のまとめ

前:豊臣秀吉小田原城を包囲

後:忍城一帯は徳川家康支配下

忍城攻め以前の情勢

忍城までの石田三成の進軍経路を示す図

豊臣秀吉は北条氏を征伐の号令を諸大名に出します。1590年、豊臣軍は小田原城(神奈川県)に向けて進軍。東海道線から攻め入った豊臣秀吉率いる軍勢は、小田原城を包囲。一方、北から東山道を通り小田原城を目指す軍は、周囲の城を攻略しつつ南下。

豊臣秀吉率いる軍勢は、小田原城の包囲を終えると、他の城を攻略し始めます。忍城攻めはこの一環で行われた戦いです。

小田原城を包囲後、豊臣秀吉は従軍していた石田三成に館林城(群馬県)と忍城(埼玉県)を攻め落とすことを命じました。一軍の指揮官となるのは、石田三成にとって初めての経験でした。石田三成の指揮下に入った武将は以下です。

石田三成は、合計2万3000の軍を率いて進軍します。まず、館林城を包囲し降伏を呼び掛けると、城方はこれに応じました。館林城を攻略した軍勢は、忍城へと進軍。

忍城は成田氏の居城で、城主は成田氏当主の成田氏長。しかし、成田氏長は小田原城に出向いていたため、忍城にいませんでした。そこで、忍城の指揮を任されたのが、成田泰季。

忍城攻め

石田三成忍城を包囲すると水攻めにします。「水攻め」とは城の周囲を堤防で囲み、付近の川から水を引き入れることで城の周囲や、城を水没させる攻め方のことです。

近年まで、水攻めを決断したのは石田三成であったと信じられてきました。しかし、当時の書状など、確証高い一次史料によれば、水攻めにすることを決めたのは豊臣秀吉だったようです。忍城を水攻めにすることは、石田三成が現地に赴く前からの決定事項だったと推察されます。

忍城は湿地帯に築かれた城で、周囲には湖沼や水田が広がっていたため、非常に攻めづらい城でした。しかし、一方で湿地帯であるということは、水攻めを仕掛けるのには向いています。さらに、忍城の近くには荒川と利根川があり、川から水を流し込むことも容易だったのです。

石田三成忍城に到着すると、浅野長政に書状で城攻めの方法を相談。数万の将兵を指揮する経験がなかった石田三成にとって、当然の決断です。また、豊臣秀吉に水攻めのための、具体的な堤防構築計画を作成し提出。豊臣秀吉に承認を得ています。

石田三成が築いた堤防の全長には諸説あるものの、28 kmもの堤防だったと言われています。工事には付近の住民を黄金や米で雇い動員しました。そして、荒川と利根川から水を引き入れたのです。しかし、水攻めは失敗に終わり忍城よりも小田原城の方が早く落ちます。

石田三成が構築した堤防は、決壊し石田三成の本陣に水が流れ出し、数人から数百人が亡くなったと言われています。また、忍城が開城したのは小田原城に籠った城主の成田氏長を豊臣秀吉が説得し使いを出させたからという説もあります。

忍城攻め以後の情勢

徳川氏支配時代の忍城の城主を示す図

忍城攻めを終えた石田三成は、宇都宮にいた豊臣秀吉の下に向かいます。そして、奥州に派遣され大名の配置換え等に携わりました。その後は京に戻り政務を執行。

一方で、忍城主の成田氏長は会津に領地を移された蒲生氏郷に仕えました。後に下野(栃木県)烏山2万石の大名に復帰。豊臣秀吉の側室となった娘、甲斐姫の斡旋があったとも。

北条氏が治めた土地は、徳川家康に与えられます。忍城徳川家康配下の松平家忠が支配し城下を復興。2年後には、徳川家康の、四男松平忠吉の居城となります。