りけイノシシのweb武将名鑑

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志賀の陣:戦いで読み解く戦国史

志賀の陣は、織田信長浅井長政朝倉義景・比叡延暦寺の3ヶ月弱にも及ぶ対峙のことを言います。志賀の陣に注目して、その前後の情勢まで見ていきましょう。

志賀の陣という文字と灰色の背景

志賀の陣とは?

志賀の陣が起きた場所と勝敗を示す図

志賀の陣は、1570年9月16日織田信長の隙を突いて、浅井長政朝倉義景が近江(滋賀県)を南下してきたことがきっかけとなって起きた争いです。織田信長が現地に赴くと、浅井軍・朝倉軍は比叡山延暦寺の山々に布陣。ここから、長い対峙が始まりました。

志賀の陣前後の情勢

以前:織田信長は摂津で三好三人衆らと対峙

以後:織田の恨みを買った延暦寺は翌年焼討ち

志賀の陣以前の情勢

志賀の陣前の諸勢力の配置を示す図

浅井長政朝倉義景は1570年6月に、姉川の戦い織田信長に大敗を喫していました。しかし、織田信長の方も両者を徹底的に叩くほど、戦力を動員していなかったため、浅井長政朝倉義景は一定の勢力を維持。

一方、織田信長姉川の戦いの後、8月から摂津にて三好三人衆との戦いに臨んでいました。当初は、三好三人衆を圧倒するも、石山本願寺の挙兵によって状況が悪化していたのです。

志賀の陣

1570年9月16日

浅井・朝倉軍が近江を南下する様子を示す図

織田信長が摂津に釘付になっている隙に、浅井長政朝倉義景が、琵琶湖の西部を通って近江(滋賀県)を南下。浅井・朝倉軍への作戦目標は、京への侵攻でした。

浅井軍・朝倉軍南下の知らせを受けた宇佐山城主の森可成は、守備兵1000人のうち500人を率いて坂本口まで出陣。一帯の街道を封鎖し、侵攻を阻もうとしたのです。

そして、浅井・朝倉軍と森軍は小規模な戦闘に。この小競り合いは、森可成が勝利しました。

9月19 日〜20日

浅井・朝倉軍と森良可の争いを示す図

織田信長が摂津で敵対していた石山本願寺顕如の要請を受けて、比叡山延暦寺浅井長政朝倉義景に味方。森可成らは西に僧兵、北に浅井・朝倉軍の計3万の敵を抱えることとなったのです。

浅井・朝倉軍が再度、坂本へ侵攻。森可成らは浅井軍の先鋒山崎片家と遭遇。激戦を繰り広げるも、森可成は石田十蔵に討ち取られます。また、この戦いで織田信長の弟、織田信治は大陽寺景治に討ち取られ、青地茂綱も戦死。

勢いに乗った浅井・朝倉軍は坂本・四谷・錦織・山上に火を放ち、宇佐山城を攻めるも、城兵の激しい抵抗に遭い攻撃は失敗。宇佐山城攻略を諦め、大津に進軍。松本・馬場にも放火しました。

一方で、摂津にいた織田信長の下に浅井・朝倉軍が近江(滋賀県)を南下したという知らせが届きます。これを受け、織田信長柴田勝家村井貞勝明智光秀を摂津から京に派遣したのです。

9月21日

浅井軍の山科への侵攻と織田軍の状況を示す図

浅井・朝倉軍の先鋒は逢坂を超えて、山科、醍醐に侵攻し火を放ちました。

一方で、この日の夜、柴田勝家村井貞勝明智光秀が京に到着。村井貞勝明智光秀京都所司代であったため、京の守備に着きました。

9月23日

浅井軍の逗留地と織田軍の撤退を示す図

一方で、織田信長に摂津から派遣された柴田勝家は近江(滋賀県)の状況を聴取後、摂津へ戻りました。23日柴田勝家から報告を受けた織田信長は摂津からの撤退を開始。その日のうちに、足利義昭とともに京へ帰還。それに対し、この日浅井・朝倉軍は大津に布陣したままでした。

9月24日

織田軍と浅井・朝倉軍・延暦寺の対峙と織田信長の延暦寺への対応をまとめた図

織田信長は京を出発。逢坂を通り、下坂本まで進軍し本陣を置きました。一方の浅井・朝倉軍は、比叡山に登り防備を固めます。浅井長政は青山に、朝倉軍の先鋒、朝倉景健は壺笠山に布陣しました。

比叡山に登られて困った織田信長は、比叡山延暦寺に、味方になれば延暦寺の元領地を返却すること、出家した身でどちらにも肩入れできないなら、中立を保つよう要求。また、敵対するなら、延暦寺を焼討ちにすると伝えました。これに対する、延暦寺からの回答は無し。延暦寺織田信長への敵対を選択したのでした。

9月25日

織田軍が比叡山を包囲する図と将兵の布陣場所をまとめた図

延暦寺が敵対したこともあり、織田信長比叡山の包囲するように諸将を配置。織田軍は、以下のような布陣を敷きました。

坂本香取屋敷

平手汎秀、長谷川丹波、山田勝盛、不破光治

丸毛兵庫頭、浅井政貞、丹羽氏勝、水野大膳ら

穴太

簗田政綱、川尻秀隆、佐々成政、塚本小太郎、明智光秀、苗木久兵衛村井貞勝佐久間信盛、進藤賢盛、後藤高治、多賀常則、梶原景久、永井雅楽介、種田助丞、佐藤秀方、中条家忠

田中

柴田勝家氏家直元安藤守就稲葉良通

唐崎

佐冶信方、津田太郎左衛門

宇佐山城

織田信長

勝軍山

織田信広、三好為三、香西越後守、幕府衆

八瀬・大原口

山本対馬守、蓮葉

10月16日~21日

織田軍と朝倉義景の対峙、朝倉軍の各地の襲撃を示す図

対峙が長引く中、10月16日朝倉義景が朝倉景鏡を前軍として、上坂本から仰木の間に布陣。一方で、織田軍にも丹羽長秀と木下秀吉が援軍に駆けつけています。20日戦線膠着の打開を計った織田信長が、朝倉義景に決戦を申し込むも、朝倉義景はこれを拒否。

21日には、逆に青山を下りた浅井軍が、一乗寺、修学院、高野、松ヶ崎を放火しました。幕府衆と勝軍山の織田軍が向かうも、浅井軍はすぐに退きました。さらに、この頃には、織田信長が浅井・朝倉軍に釘付けになっていたため、以下のように各地で争いが起きています。

11月25日~26日

堅田での織田軍と朝倉軍の争いを示す図

11月25日浅井方であった堅田衆の猪飼昇貞、居初又次郎、馬場次郎が、織田方に寝返りを伝えてきました。知らせを聞いた織田信長は夜間に、坂井政尚、安藤右衛門佐、桑原平兵衛ら1000の兵を派遣。砦に侵入し防備を固めさせようとしますが、朝倉軍がこれを察知。

翌日に朝倉景鏡、前波景当、一向宗門徒らが比叡山を下って、堅田の砦を襲撃。坂井政尚らは孤立するも、前波景当を討ち取るなど奮闘。しかし、織田方は敗北し坂井政尚は討死。猪飼昇貞らは琵琶湖を渡り逃走しました。

11月28日~12月23日

足利義昭と二条晴良が三井寺を訪問した様子を示す図

11月末になっても包囲が続き、戦局が転向しないことを憂いた織田信長は、裏技を使います。朝廷と室町幕府15代将軍、足利義昭の権威を利用して浅井長政朝倉義景との和睦を図ったのです。

11月28日に、足利義昭と関白の二条晴良三井寺を訪問。そして、12月13日に天皇の名の下に、和睦が成立しました。

近代になるまで天皇は日本国内で、最高の権威を持っていました。天皇の勅命に対しては、戦国大名といえど表立って反抗することはできません。織田信長天皇の権威を利用して、浅井長政朝倉義景に半ば強制的に和睦を認めさせたのです。

12月14日~17日

織田信長、浅井長政、朝倉義景の撤退経路を示す図

14日まず、織田信長が勢田まで撤退。その後、浅井長政朝倉義景は高島を経由して、それぞれ自領に帰還。2日後、織田信長も勢田を出発し佐和山を経由して、翌日岐阜城に帰還。

志賀の陣以前の情勢

志賀の陣は、和睦という形で終わりましたが、織田信長浅井長政朝倉義景の緊張状態はこの後も続きます。また、浅井長政朝倉義景に味方した比叡山延暦寺は、翌年織田信長によって焼討ちにされます。